秋田県の美容界
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美容50年の移り変わり(後編)

昭和53年・中村芳子

戦時花嫁のために島田のかつらを備えました。花嫁も紋付姿にモンペ、防空づきんを側に置いて、警報が鳴れば高島田はづきんに早替わりという笑い話のような時代です。

昭和20年8月15日終戦。
私は今この原稿を書き乍ら正午の鐘をきき、黙祷を捧げました。
その日、空家のような美容室に、虚脱状態の折りはやくも、終戦1号のお客様が来られた時は感激でした。
その後、秋田にも進駐軍のマダムが来られコールドパーマネントをかけなければならなくなりました。
家庭用ワンセットにシャンプー、リンス剤、カラーリンス等を持参です。
苦労もしましたが大変勉強にもなりました。
マダム達は、日本の料金は安いし、セットも気に入って喜ばれ、当時の美容衛生取り締まりにも役立ったと思います。

21年、第1回目の全国美容コンクールが開催され、私も審査員の一員として出席しました。現在の指導者クラスの方々がその時入選されました方々でした。

この頃から、全国、ブロック、県と組合が出来、新しい美容業界、美容師の活躍時代に入ります。

23年頃からはコールドパーマの時代がはじまり、一般に普及しますまでは5,6年かかりましたでしょう。

初期には、こよりでかけた時もありました。

23年頃から秋田にも田中先生、千葉先生、真野先生、山野先生、中村リオ先生、名和先生と続々新しい技術の講習に来られました。

そして秋田市で大衆対象の美容まつりを県の記念館で開催し、これは全国でも珍しい事でした。

25年から、アール・テイトのアメリカ式理論のスカルプチャカール、そして立体的なウェーブ法に依って技法の革命を呼び、続いてフランスのロジェ・バレリー等10数名に依って、フランス式美容のエスプリを学び、ムードある今日の美容師が誕生しました。

そしてル・パナッシュ, ラ・コロール等のニューラインが発表され、ご記憶の方もありましょう。

日本でも、マンダリン, ロココライン, そして38年には全日本美容講師会の設立で、カトレア, ザ・リーフ等現在まで、年2回、2種類のニューラインが発表されております。

アール・テイトの日本最後の講習を秋田で開催しました。

現在は男性美容師の出現でカット・ブロー, オンリーも続きましたが、服装のニュースタイルに添って、最近はロマン的傾向もあり、ヘアカラーもカラフルになり、どんなにニューラインで各々の個性を豊かにする事でしょう。

50年を振り返っていろいろの事があったなあと、今はなつかしく思っております。

 

 
最後に福沢先生の一句をおくります。

1. 世の中で1番楽しく立派な事は、一生を貫く仕事を持つ事である。

1. 世の中で1番美しい事は、すべての物に愛情を持つ事である。
 

以上

ここまでが中村先生が昭和53年に組合創立20周年記念の「組合の歩み」誌に寄せられた原稿です。

当時もうじき80才になろうとしていた中村先生が書いた原稿です。

先生の見識の確かさには只々感動するばかりですね・・・

これからもまだまだ元気て後輩たちの頑張りを見守っていただきたいものです・・・・・

感謝!

組合の歩み
 

美容業者数:

S33  698名

S35  928名

S40 1,279名

S45 1,845名

S50 2,242名

中省略

現在 3,014名

S32,6,3  環境衛生関係営業の適正化に関する法律が公布される。

S33,1,8  組合設立許可を受ける。

S33,1,15  美容組合報(ガリ版刷)が発行される。

S35,6   「組合報」第1号発刊

S41,8   環衛融資制度が発足

S43,7   第一回秋田県美容技術選手権大会開催される

S44,8   環衛会館竣工、組合事務所移転

S44,8   第一回管理美容師資格認定講習会開催

S46,1   美容師試験にモデルウイッグ採用

S48,10   小規模企業設備資金(無担保・無保証)融資制度実施

以降省略

現在に至る

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