第1話

川反で育った子供時代

わたしは明治32年10月2日、秋田市の川反5丁目に生まれました。生まれた家は、花柳界のど真ん中でした。父は中村栄助と申しますが、いま思いますと、人のために尽くして、たくさんのものを失ったようですが、人間性豊かな父だったと思っています。

「明治は遠くなりにけり」と申しますが、今は「大正」も遠くなり、「昭和」でさえ遥かになったのでしょうか、来し方を思い出すのでございます。年をとりますと、だんだん子供に帰るといいますが、本当のようでございます。

昔は、旭川を境に、外町とお屋敷町に分かれていて、川沿いはずっと土手になっていました。お屋敷町には松、花柳街のほうには、柳が植えられていて、私はここで遊び育ちました。

春になりますと土手にツクシが顔をだし、タンポポの花がいっぱい咲き乱れていました。

今の北都銀行(旧あけぼの銀行)あたりに、京都の別館と呼ばれていた中京院がありました。「春祭り」になりますと、土手長町に屋台が続き、楽しかったものです。夏は河原で「ママゴト遊び」をし、冬は「引きぞり」で、毎日夜まで滑りました。道路は屋根の「雪下ろし」で、1メートル以上も高く積もり、家に入るのに、段々を作って入ったものです。

川反4丁目、5丁目には料亭と、芸者の置屋がたくさんありました。当時、私の家は雑貨・小間物商でしたので、美しい芸者さんや舞子さんたちが出入りしていました。わたしも子供心に
「舞子さんになりたい。踊りを習いたい」
と思ったものでございます。今思いますと、川反の華やかな頃ではなかったでしょうか。

「何をくよくよ川反柳、流るる、ナントショ・・・水の流れを見て暮らす」

川反は情緒豊かな花街でした。

しかし、社会資本はまずしかったと思います。電気、電話、ガス、水道などはありません。みんな「タンゴ」をかついで、旭川の水を運んで、飲料にしていました。ですから旭川のところどころに「水くみ場」がありました。現在は「那波さん」のところにその名残を見ることが出来ます。4丁目の「亀清」のところにもありました。

早朝は台所用の「飲水」です。次は洗濯や用水でした。「タンゴ」で水を運ぶものですから、途中でその水がこぼれ、冬などは「朝氷」となって、道路をテカテカにすることも度々ありました。そして、電気がありませんから、ランプの「ホヤミガキ」です。こうした想い出が昨日のように懐かしく浮かんでくるのです。

  
  

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