第21話

空襲前夜のソリューション製造

 

ですから、わたしは、パーマに使うソリューションがなくなれば、闇でキップを買って、モンペを履いて、リュックを背負って、一升ビンをさげて、東京まで買い出しに行きました。
今でも忘れません。山野商事の社長さんが
「中村さん。家族はもう疎開しています。わたしも明日、長野へ疎開します。次に、あなたが東京に来るときには、東京は焼け野が原になっているかもしれません。ソリューションもなくなるはずです。しかし、どんなことがあっても美容を捨てないでください。ソリューションの作り方を教えましょう」
と、その作り方を教えてくださったのです。
「さあ、早く秋田へ帰って、薬品を買い付けなさい。早くですよ。お互い頑張ろうね」

それから間もなく、東京の大空襲が始まりました。
そのとき習ったことがどれだけ力になったか知りません。
秋田に帰って
「よし、ソリューションを自分で造ろう」
しかし、自分で作るのは初めてです。
しかも戦争中ですから、なかなか必要な原料が手に入らないのです。
少量では売ってくれませんので、ドラム缶で原料を購入したりしました。
そして、あの時教わった処方箋にしたがって作ってみるのですが、なにしろ初めての経験ですから、火傷はするし、指は赤く腫れ上がって----今ではとても考えられないことです。
ですから時々思うことがございます。
戦争中でもあり「パーマ」に必要な薬品も入らない時代ですから、もし、わたしが「パーマ」をやめても、お客さんは誰ひとり文句は言わなかったと思います。
しかし、わたしにそんな発想は全くございませんでした。
あの空襲前夜の山野治一先生の
「どんなことがあっても美容を捨てないで、お互い頑張ろう」
とおっしゃった言葉が支えとなって、営業への情熱を燃やし続けることができたと今でも思っています。  

 

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