第4話

若き日の思い出

わたしの住んだ親戚の家は、東京牛込の坂の上の叔父の家でした。
わたしは東京・九段の和洋女学校へ入りました。
その頃は、松井須磨子の「カチューシャ」の歌が流行していて、男も女も、学生たちは勿論、店屋の小僧さんたちまで口づさみ、街に「カチューシャ」の歌が満ちあふれていました。
しかし、夕方になりますと、豆腐屋さんが「トーフ・トーフ」と物悲しいラッパを吹いて通るのです。
その「トーフ」の「ラッパの音」を聞いて郷愁を覚えたことを思い出します。

でも、そこには秋田の仲間がいました。
親戚の家には、中学生の近江屋晋作さん、慶応の近江屋喜六さん、早稲田の冨樫さんなど、書生さんたちがいてとても賑やかでした。
晋ちゃんは半蔵門のあった日本中学に通い、わたしは九段の女学校ですから、市ヶ谷の納戸町、加賀町などの屋敷町を通り、堀端の新見附までいっしょに通ったものです。
晋ちゃんは図画が苦手で、よく絵を書かせられました。

学校から帰ると「お八つ」はたいてい「焼き芋」か「今川焼」で、ゴマ塩のふったホカホカの「お芋」は、本当においしかったものです。
冬の夜は「南京豆」と「ミカン」でアミダをしたり、男の子にまじって、ディスカッションしたり、お正月は「餅の食べくらべ」をしたり、いまになれば、みな楽しい思いでばかりでございます。
みんな、それぞれの青春を謳歌していたのですね。

わたしはそのころから太っていました。ですから盛装をして出掛けますと、書生部屋から声が聞こえてくるのです。
「歩く姿は四斗だるま、転げだすよで、おもしろい」
と節をつけて、囃し立てるのです。でも、わたしはあまり気にしていませんでした。
ケロッとしているものですから、相手も拍子抜けしたのでしょうか、いつのまにか、囃し立てることもなくなりました。

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